先日、インドネシア共和国のパプア州
にある「ジャヤプラ」と言う町から、Facebookを通じて、友達申請が届き
ました。
一体誰だろう?と思い、情報を確認
してみますと、何と、私と一緒に
撮った写真が添付掲載されていました。
それを見た瞬間、私の身には、一瞬
震えが起こったのでした・・・。
私が青年海外協力隊に参加し、活動
後半の1993年に、現地でソフト
ボールを教えていた選手でした。
ジャヤプラは、インドネシア共和国
東端に位置し、隣国パプアニュー
ギニアとの国境すぐ隣にある町です。
ちょっと遠すぎて、今ではなかなか
行けない「秘境」です。
当時は、まだ青年海外協力隊が誰一人
派遣されていない、いわば
「未開の地」でした。
コーディネーターの職員からは、
「派遣要請の調査を兼ねて、大槻さん
ジャヤへ行って来て!」などと依頼
され、
「マラリア(熱帯の高熱を伴う病気)
は大丈夫かな?」などと、多少の
心配を抱えながら、約1ヶ月間、
ソフトボールの指導と普及に行って
来たのでした。(^^
その頃は、インターネットは勿論
ありませんでしたし、携帯電話や
家庭の家電話もほとんど無く、
おまけに、唯一の通信手段とも言える「公衆電話」も、大半が「故障中」と言った状況でした
ので、外部と簡単に連絡を取る事などできない地域でした。
そんな町ではありましたが、人々は皆優しく、親切に接してくれましたので、滞在した1ヶ月
は、とても楽しく「あっ」という間に時間は過ぎてしまいました。
ジャヤプラを離れる最後の日に、
選手達が空港まで見送りに来てくれ
ました。
貧しい町でしたが、心のこもった
「おもてなし」をしてくれた。
そんな良い思い出が残っています。
「もう会うことも無いかもしれない」
と思うと、飛行機が飛び立った時、
自然と涙が流れてきました。
今では、連絡先も分からず、青春時代の遠い過去の思い出になってましたが、私のことを覚えて
いてくれたとは、なんか感激しました。
その後、何度か、メールでやりとりするうちに、不思議なもので、20年以上も前のことが、
昨日の事の様に「鮮明」に思い出されてきました。
これも、私にとっては「ソフトボール」を通した、絆であり繋がりです。
東日本大震災後には、ソフトボールを通した多くの仲間から、たくさんの激励と支援を頂き
ました。本当に感謝感謝の連続でした。
そんな訳で、私にとってソフトボールは、切っても切れない、それ無しには語れない、とても
大切なものになっています。
今回の事を契機に、青年海外協力隊員時代の活動(インドネシア共和国でのソフトボール
普及活動)を、少しずつ紹介していきたいと思います。
興味のある方は、お付き合い下さいね!(^^"